書評
米田剛著「数理流体力学への招待」
2020年06月09日
坂上 貴之
さかじょう たかし
京都大学
本書タイトルは「数理流体力学への招待」とある.数理流体力学は,広い意味での数理科学的(理論的)手法で流体力学を研究する分野を指すが,流体現象は理学・工学の広い分野で幅広く現れる対象なので,この分野への「招待」という場合は,想定する研究者の学術背景に依存する.その観点から本書を見ると,これは数学,特に偏微分方程式論を目指す院生などの若い研究者に対する招待ということになる.偏微分方程式論において,非圧縮粘性流体の運動を記述する偏微分方程式であるNavier-Stokes方程式の解の適切性(適切な初期値に対して,すべての時間にわたって解が一意に存在すること)の証明はClay数学研究所のミレニアム懸賞問題となるほどの難問であり,それを解決するために多くの新しいアイデアや理論が日々生み出され,当該分野を前進させる大きな原動力となっている.一方,こうした非線型偏微分方程式の数学研究では,解析的な議論が成立するために必要な関数空間の設定やその精密な評価といった技術的な側面がクローズアップされ,細部にわたる技術的な方向に研究がとらわれがちである.しかし,こうした技術的な進歩の背景には,その方程式が記述する物理現象への深い洞察が欠かせないこともまた事実である.翻ってその観点で数理流体力学の研究を見たとき,古典物理の最大の難問とされる「乱流現象」への洞察は極めて重要なことであることは言うまでもなかろう.本書は,そうした観点に立脚して二次元・三次元空間におけるNavier-Stokes方程式の適切性に関する非線形偏微分方程式論の研究で得られた成果と,乱流物理の成果を結びつけようとしている点で,本分野の初学者にとっては示唆に富むものである.
本書の構成を見てみよう.1章から4章まではこれまでに数学の側として知られているNavier-Stokes方程式,および粘性項を取り除いたEuler方程式の解の適切性に関して知られた結果を概説している.その後,5章と6章ではBourgain-Liらが得た2次元Euler方程式のノルムインフレーションと呼ばれる特異解を取り上げ,この解の構成で得られる初期渦構造が,二次元乱流の乱流構造維持のメカニズムの一つであるvortex-thinningをうまく表現することを考察している.乱流構造の維持にこうした特殊な構造をもった流れが重要な役割を果たすことがしばしば指摘されるが,この初期値は局所化された渦度領域を自己相似的にうまく並べることで構成されており,ここで示されている考察は面白い.7章の記述について,著者は非常にインスパイアされたと書いているが,三次元乱流の数値研究の結果が主に述べられており,二次元Euler方程式の数学研究に詳細が述べられた本書構成の中で明確に位置づけられていないように見えた.三次元乱流と二次元乱流には共通部分もあるが異なる性質もたくさんあるため,その点で若干の説明不足を感じた.
本書ではあまり明確に触れられていないが,一般には乱流現象を記述するのはEuler方程式ではなくNavier−Stokes方程式であると信じられている.ただ,乱流現象は非常に粘性の小さい時に観察されるため,粘性ゼロ極限としてのEuler方程式の解が乱流の性質を捉えているのでないかと考えるのは自然なことである.しかし,ここに落とし穴が存在することも注意しておかなければならない.まず,Navier-Stokes方程式の粘性ゼロ極限と粘性ゼロのEuler方程式では,解の状況が異なる可能性は排除できない.次に,Euler方程式(特に三次元で考えた場合)は非物理的な解(たとえば時空間で局所的な解など)も(弱)解として構成できることが知られているため,物理的に妥当な解が何かということを常に考慮しておかなければならない.例えば最近の三次元一様等方乱流に関連した数理流体力学における顕著な進歩として,粘性ゼロ極限で,本来滑らかな解なら保存されるべきエネルギーの散逸率がゼロにならない,指数1/3未満のヘルダー連続性を持つEuler方程式の弱解の構成にBuckmaster, De Lellis, Székelyhidi, Isettらが成功している.これは,Kolmogorovの乱流理論の必要条件(Onsager予想)を満たす解として注目されているが,これが乱流統計則を満たす解となっているかはまだ明確にわかっていない.ただ,こうした乱流の性質を再現するクラスのEuler方程式の解の研究は重要であり,微少粘性を加えたときの解挙動を調べることでNavier-Stokes方程式の数学解析に貢献することもおおいに期待される.
乱流を数学的に明確に定義することは容易なことではない.例えある性質をみたす特異な解を発見しても,それが乱流の全てを表現するわけではないからである.こうした乱流のある性質を満たす解の構成は強力に続けるべきと考える一方で,数学的な成果の意義づけにとらわれるあまり「群盲象を評す」の状態に陥らないよう常に注意したいものである.その観点からも,乱流物理の成果に対する洞察を加えつつ偏微分方程式論の研究を進めていくという本書が示す姿勢と考え方は,これから本分野に進もうと考える若い研究者にとっては好ましい研究上の指針を与えるであろう.