書評

『世界標準MIT教科書 ストラング:計算理工学』(ギルバート・ストラング 著、日本応用数理学会 監訳、今井桂子・岡本久 監訳幹事、山本有作・三井斌友・土屋卓也・芦野隆一・緒方秀教・降籏大介・速水謙・山下真 訳、近代科学社、2017)

2018年12月11日

加古 孝

かこ たかし

電気通信大学名誉教授

本書は、現在も発展中の新しい学問分野である「計算理工学」について、線形代数を中心において著者のギルバート・ストラング教授がMITで長年にわたり取り組んできた講義をもとに記述した教科書もしくは参考書の邦訳である。訳者たちは我が国を代表する研究者であり章ごとに訳文に多少の相違があるが全体として著者の講義のスタンスが良く伝わってくるものになっている。

これまで本書のようなスタイルで書かれた書物はほとんど無かったように思われる。それは、教科書と言うと完成した内容を読者に誤りなく伝えるということが使命であるように思われていたからである。その点で、本書は極めて初等的な2×2の行列の場合に例を取って問題を提起し、そこで十分に内容を展開したうえで、次に最先端の応用を見据えた内容を場合によっては証明なしで提示するという記述のスタイルを取っている。したがって、本書を教科書として講義する場合は、担当者は内容をかなり入念に前もって咀嚼している必要があるだろう。本書のもとになる講義をウェッブ上で見ることが出来るが、その内容はその場で学生が理解できるように限定して語られており、ホームワークの形でさらなる内容の理解を促している。そして本書においては、講義をはるかに深めた内容が書かれており、それを完全に理解するためには、読者はかなりの時間をかけて計算し、場合によってはネット検索して情報を集める必要がある。

第1章は「応用線形代数」という題で、本書全体で現れる行列の性質について詳細に記述がされている。特に、「1.7 数値線形代数」と「1.8 特異値分解による最良基底」の2章は2×2もしくは3×3行列を例にとりつつ相当に深い内容について理論の展開と実際の計算を行っている。ついで、第2章では「応用数学の枠組み」と題して、力学系からの例題、最小二乗法の話題、さらにはグラフやネットワークにおける線形代数の応用問題について話を進め、「2.7 平衡状態の構造」「2.8 共分散と再帰的最小二乗法」「2.9 グラフの切断と遺伝子のクラスタリング」などの最先端の研究課題について話を展開している。

以上の概観を踏まえて、第3章では標準的な微分方程式と有限要素法について、その弾性体や固体力学への応用まで含めた紹介を行っている。ついで、第4章では「フーリエ級数とフーリエ変換」を取り上げて離散フーリエ変換と高速フーリエ変換やウェーブレットと信号処理に至る話題について取り上げている。さらに第5章では「解析関数」と題してz-変換やスペクトル法についてその有用性を丁寧に説明している。
ついで、第6章は「初期値問題」という題のもとに初期値問題の離散近似法と安定性について述べ、その広範な応用について、波動、拡散、移流、さらには金融問題について紹介し、さらに非線形問題の重要性を流体とナヴィエ‐ストークス方程式を例にとって説明し、レベルセット法や高速マーチング法についても紹介している。第7章では「大規模連立1次方程式の解法」と題して実際の大規模計算で使われるアルゴリズムについて述べている。並べ換え行う消去法や反復法、さらにマルチグリッド法、クリロフ部分空間と共役勾配法についてかなり詳細に紹介を行っている。

第8章は「最適化と最小原理」と題して、最小二乗問題の解法、変分法との関係、射影の誤差と固有値について述べている。そして、典型的な問題として流体のストークス問題を取り上げ、そこで現れる鞍点行列の扱いと下界上界条件の重要性について述べ、線形計画問題におけるKKT(カルーシュ‐クーン‐タッカー)条件の重要性や双対原理の説明を行っている。また最適設計における勾配計算に関して随伴法について紹介している。

以上のように、極めて豊富な話題を提供した後で講義内容をまとめると同時にこれからの発展方向を示す形で「計算科学と計算工学」と題した1節を設け、大規模線形計算が必要になる計算理工学の方向性を、計算工学、計算電磁気学、計算物理と計算化学、計算生命科学、数値シミュレーションと設計、数理ファイナンス、数値最適化のそれぞれの分野ごとにコメントしている。そして最後を締めくくる形で「科学計算の基本」として、1.行列の方程式と線形代数の中心的問題  2.時空間における微分方程式:境界値と初期値  3.線型方程式と非線形方程式から現れる大規模疎行列、と言う形でまとめている。

本書は著者のストラング教授ならずしては書かれなかった非常に豊富な内容に溢れている。それだけに簡単ではないと思うが日本における大学の当該分野の教授陣が是非ともこれらの内容を自家薬籠中のものとして学生に教えることが出来ることを期待したい。本書に関係してウェッブページ:http://math.mit.edu/~gs/cse/ があり、ストラング教授とCSEの講義の受講者たちとの生き生きとした交流の場になっていることが分かる。そこには講義の動画もあり一見の価値がある。