書評
齊藤宣一 「数値解析入門」(東京大学出版, 2012)
2018年07月24日
高安 亮紀
たかやす あきとし
筑波大学 システム情報系
本書は「数値解析」の入門を目的とした教科書として、「数値解析」の講義で標準的な題材である浮動小数点数(1章)・連立一次方程式(2, 3, 9章)・非線形方程式(4章)・固有値問題(5章)・関数近似(6, 7章)・数値積分(7章)・常微分方程式(8章)に関する各々の数値計算法とその理論を解説した書籍です。結論から先に申し上げますと、本書は大学生・大学院生および「数値解析」に関わる多くの研究者に一読をお勧めします。
以下、本書の内容に触れる前に、「数値解析」に対する曖昧さを明確にしておきます。今日、筆者が感じる限り、「数値解析」は同じ言葉で二つの使い方をされることがあります。一つは、「数値解析」は応用数学の一分野であり、代数的操作によって解くことができない数学の問題を、数値を用いて近似的に解く手法に関する数学的な概念を研究する分野とする使い方。もう一方は、「数値解析」とは数値を用いて上記のような数学の問題を解決する手法とする使い方で、数値計算・数値実験・計算シミュレーションと同義のように使用されます。本稿の読者の方々は、前者を「数値解析」と呼ぶことが多いと思います。本書においても「数値解析」を「数学的な概念を、具体的に数値を計算するという立場から研究する分野」と定義しており、前者の立場から解説が進みます。すなわち、本書の一つ目の特長は、数値解析(上の定義によって、以下「」は取ることにします)が応用数学の一分野というある意味の王道によって、数値解析学を展開している数学書であるという点です。特に、齊藤先生も明言されていますが、数値解析の最先端の研究において頻繁に利用される関数解析への接続が強く意識されていると感じます。
本書の各章のうち、筆者が特長的と感じた章をいくつか紹介します。第2, 3章では行列を題材に基礎事項が丁寧にまとめられています。はじめは行列に対する代数的操作の数学的な諸概念が紹介され、線形代数の教科書のように、綺麗な体裁で説明が展開されます。そして行列・ベクトルのノルムを導入することにより不等式による評価が増え、本書は解析学の様相を呈してきます。最終的に3.4節では連立一次方程式の摂動に対する安定性と行列の条件数が説明され、後退誤差解析の紹介で章を終了します。この文章の運び方は、数値解析を勉強したことがある、あるいは数値解析を講義で教えるような教員・研究者にも参考になります。これらの章の続きとして、5章では行列の固有値問題を取り上げています。特に、5.1節で固有値の包含と摂動に関する事柄から紹介する展開は、固有値の数値計算によってどの程度誤差が発生するかを意識して書かれており、齊藤先生が日頃から数値計算による誤差や収束解析を意識されている証拠と考えられます。筆者の個人的な願望では、本章の続きとしてシフト付きQR法や陰的シフトQR法の紹介を見てみたいです。最後に、第9章では連立一次方程式の共役勾配法を紹介し、その収束性について解説が展開されています。共役勾配法は、9章のはじめにあるように、通常幾何学的(問題から定義される汎関数の停留点への点列を、最急降下方向を適切に選ぶ事で作成する)な説明が多いですが、本書では変分法的な説明により、あくまで解析学の対象という立場で理論が端的にまとめられています。この点は、他の書には見られない特長と言えます。
さらに、ご存知の読者の方も多いと思いますが、齊藤先生と言えば日本応用数理学会等での幅広いご活躍とともに、ご講演時における造詣の深いコメントが特長的な数値解析学者です。本書では、齊藤先生の深い教養からくる見事な「注意」が随所に見られることも特長の一つです。これらは本書を使って学習をしている学生だけでなく、応用数学・数値解析の研究者も大いに参考になることでしょう。
最後に、本書の欠点にも触れておきます。しかし、この点は欠点と言えないとも思いますが、入門書としてはじめて本書を手に取る(特に工学系の)大学生にとっては、本書の展開は難解に見えてしまうかもしれません。特に数学書を読みなれていない学生は、数値解析が敷居の高い学問であると誤解を生じさせるかもしれません。しかし、この点は齊藤先生による別著「数値解析」(共立出版,2017年)が、標準的な例を交えた丁寧な説明により補っています。本書と合わせてこちらを読むことを是非お勧めします。逆に数学書の記述に慣れている学生には本書は大変心地よく、最初から最後まですらすらと読み通せてしまうでしょう。本書を読んで数値解析の分野に興味を持ってくれる方が増え、数値解析の分野がこれまで以上に発展することを期待します。