書評
岩見真吾・佐藤佳・竹内康博著:ウイルス感染と常微分方程式,シリーズ・現象を解明する数学,共立出版,2017
2017年10月24日
中田 行彦
なかた ゆきひこ
島根大学大学院総合理工学研究科数理科学領域
古来より人類は感染症の脅威に晒されてきた。病原体やウイルスの理解が進んでいなかった時代に、感染が拡大していく様は筆舌に尽くしがたい恐怖であっただろう。「罪深い人類への神の報い」であった感染症は、偏見や差別の原因でもあったが、ウイルスや細菌、微生物の発見によって、我々の認識は次第に変化してきた。 観測技術の発達に助けられ、分子やタンパク質を始めとする生命要素の理解は劇的に飛躍し、分子生物学は著しく進歩した。しかしながら、現代の社会においても、小さなウイルスや病原体によって引き起こされる感染症は、性感染症や新興感染症を例に、依然と存在する脅威であることは事実であろう。
感染症の現象の背後には、まだ目に見えていないものが隠れているのだろうか。我々の目で観察出来ていない要素が、適切な医療介入や処置、コントロールを困難にしているのではないだろうか。自己増殖機能を持たないウイルスは、人間個体の標的細胞や免疫系と複雑に相互作用し、動的な環境で自己複製を繰り返していく。我々の「目」で見えづらいものは、ミクロな分子や細胞、遺伝子と共に、「時事刻々と変化する」力学系や複雑な相互作用によって現れる非線形性であり、後者は、数理科学なしに理解することが困難なものである。
体内のウイルス動態が複雑な生命現象であることは、本書の第1章と第2章で、 特に重点をおいて記述され、数理モデリングの必要性は、「ウイルス複製プロセスが非同時かつ多発的に繰り返し起こる」ことから動機付けられる。本書を読むにあたって必要な生物学的背景やウイルス動態のメカニズムは丁寧に説明され、生物学を専門としない学生にとっても、生物現象と数理モデリングについて、偏らずに学習を進めていくことが可能である。筆者らのウイルス学・生物学への敬意が、数理科学とウイルス学の融合研究に興味を持つ読者への丁寧なガイダンスとなったものであろう。
第2章では、体内のウイルス動態を記述する基本的な数理モデルが紹介される。これは、次のような三次元の非線形常微分方程式である。
T(t),I(t),V(t)は時刻tにおける標的細胞数、感染細胞数、ウイルス粒子数を表し、微分方程式によってこれらの時間変化を記述したものとなっている。パラメータの細かな説明は本書に譲るが、右辺は、それぞれの集団における細胞やウイルスの流入・流出を表している。新規感染細胞数を表す非線形項が特徴であり、単純なモデルでも、具体的な解の表示が知られていないことから、データ解析との相性は必ずしも良いものではない。この非線形性が感染症のダイナミクスを興味深いものとしている。
第2章で著者らは、上記の基本モデルを用いて、構造化個体群モデルのスピリットに寄り添い、ウイルス動態の指標として頻繁に使われる基本再生産数やウイルス粒子の半減期、細胞の平均寿命の計算について紹介している。基本的な数理モデルとその解析的性質は、インフルエンザウイルスやアカゲザルにおけるSHIV(サル・ヒト免疫不全ウイルス)動態の実験データの解析へと昇華され、数理モデルから定量的な応用研究への俯瞰が可能である。
第3章では、HIV(ヒト免疫不全ウイルス)治療下におけるウイルス感染ダイナミクスが、実験と数理から多面的に解析されている。現在では、HAART(多剤併用療法)によって血漿中のウイルス量を抑えることが出来るようになっているが、完全な根絶は今でも難しいようである。アカゲザルを用いた感染・治療実験と数理モデルを活用した実験データの解析は、本書のハイライトの一つである。著者らは、HAART治療下における段階的なウイルス量の時系列変化を、標的細胞の寿命に関する集団の異質性と関連づけ、数理モデルによってウイルス産生における寿命の長い感染細胞集団の寄与率を弾き出している。さらに数理モデルを用いて、その寄与率が、HAART治療の経過とともに動的に変化していくことを明確に示している。
第4章ではC型肝炎のウイルス動態とその治療における解析が、第5章ではリンパ球のダイナミクスとHIV治療への応用が纏められている。また、それぞれの章末では、演習問題を通して、安定性解析や線形微分方程式の積分を始めとした常微分方程式の基本的な解析手法や最小二乗法に関する計算などを学ぶことが出来る様になっている。
著者らは、数理解析と実験の横断的な研究によって、先見的に、実験データの定量的解析、現象メカニズムの理解、適切な薬剤投与や治療法の提案に取り組み、挑戦的に展開してきた。その野心的な思いは、本書の端々に現れ、読者一人一人を刺激し、さらなる数理解析と実験の融合研究とその果実の創出が期待される。数理モデルを用いたウイルス動態の定量解析や感染症動態の数理モデリングの入門書として適した一冊である。