書評

『越境する数学』(西浦 廉政 編)

2017年07月28日

中野 直人

なかの なおと

科学技術振興機構さきがけ・北海道大学大学院理学研究院数学部門

「越境する数学」
数学者にとっては「?」の浮かぶタイトルかもしれない.決して数学の国際交流事業の紹介本というわけではない.実は数学は越境するものだったのだ.そうは言っても,腑に落ちない読者も少なからずおられるに違いない.私なりの感じ方と解釈を通じて,この本の「越境」についてご説明したいと思う.

本書は,科学技術振興機構戦略的創造研究推進事業さきがけの「数学と諸分野の協働によるブレークスルーの探索」領域の一期生の6人に焦点をあて,各研究者の関係する数学の魅力を非専門家向けに伝えることを目的として上梓された.数学の魅力と言ってもそれは思う人によって千差万別かもしれないが,本書では「越境」という切り口を選択した.ここでいう「越境」とは分野横断のことを指す.ややもすれば自分の殻に閉じこもりがちな数学が学問の枠を越えて他分野にどう刺さり込もうとしているのか,その実例や可能性について発信することが本書のねらいである.他分野へ広がっていく学問的なポテンシャルや,その広がりの多彩さを感じることで数学の魅力の一端に触れようというのである.

この本は一つの章を一人の研究者が担当するオムニバス形式となっている.各章は,冒頭に対話編,そして本編が続く.対話編は,サイエンスライターの内田麻理香氏と各研究者との対談であり,主にこれまでの研究や研究者としてのキャリア(人によっては研究外のことも!)について触れられている.一見して世間話のようなことでも,数学や科学に対する各研究者の意識が随所に散りばめられており,彼らの隠れた一面が垣間見られて面白い.それに続く本編には,各研究者の「越境」について,母体となる数学を基としながら,それを展開する様が書かれている.

個性的な各章の著者は以下の通りである.(著者名は敬称略)

第一章 西成活裕「渋滞の数理科学から実践へ」
渋滞学というアイデンティティがニッチ(本人談)から社会貢献まで昇華する過程を追いかけることができる.産学連携のための横断型人材の育成のメッセージは今の数理科学に対する重要な問いかけか.

第二章 荒井 迅「カオスをめぐる混沌とした話」
ポアンカレの原点に立ち返り,力学系とトポロジーの合わせ技でカオスに迫る.著者はグラフ理論と計算機も持ち出して,さらなる理解へと突き進む.色々な数学が「渾沌」として一つに交じり合っていく.

第三章 坂上貴之「渦の数学が織りなす世界」
身の回りの渦の興味から始まる,流体力学の渦に関する入門編といえる本章.球面上の点渦や渦層の運動から台風に思いを馳せ,カエデの種は風力発電へと繋がり,人々の興味を渦巻いていく.

第四章 新井仁之「視覚と錯覚の数理科学」
著者らの作成した数多の錯視画が読者を魅了する.本書で数式の一切出ない唯一の章であるが,その基盤に実解析があると誰が想像つこうか.脳科学との完全なる融合に対する読者の感歎は決して錯覚ではない.

第五章 水藤 寛「臨床医療と数学」
「死んでまうがな」から「機序の解明のための協働」に至るまでの臨床医と数理科学者の相互理解の努力の繰り返しが越境のための必要条件を導く.相手のための可視化の工夫は,日常コミュニケーションにも通ずるものがある.

第六章 蓮尾一郎「数学における「理論建設人」のいきざま」
数学のカッコよさを余すところなく魅せる本章.理論建設人は既存の理論の本質を見極め,導いた一般論から別の例として新しい理論を作りだす.「「美しい」と「役に立つ」は車の両輪」.

さて,章によっては応用数学の啓蒙書という印象も強いため,本書のタイトルにある「越境」と聞くと(無遠慮に言えば)いささか大袈裟な気もする.しかし,本書の題は「越境“した”数学」ではない.越境した人,越境中の人,越境しようとしている人,越境の度合いは各研究者によってさまざまであるが,冒頭で触れたように本書は越境ガイドブックである.分野横断研究のプロセス(それはしばしば困難を伴うものであるわけだが)について,その段階に応じた取り組みが書きつづられていると思うと分かりやすいだろう.読者自身の立場に合わせて読むのも面白いのではないだろうか.

最後に一つ.本書の表紙には新井仁之氏作の「数学大航海時代の浮遊錯視」が描かれている.説明には「数学者と数学を乗せた船団は,さまざまな分野に向かって出航し,越境していきます.」とある.まさにゆらゆらと揺れ動く錯視は数学の行く末を暗示しているかのようだ.本書は,数学は越境“する”ものとして高らかに宣言した.この先,数学はいったいどこへ漕ぎ出して行くのか.新大陸か,黄金の国か,はたまた最後の楽園か.数学が,日本が,「列強」の一つに並ぶために本書から学ぶことは少なくないはずだ.