ラボラトリーズ

東京大学社会連携講座「冷媒熱流体の数理」

2023年02月08日

儀我 美一

ぎが よしかず

東京大学大学院数理科学研究科

ダイキン工業株式会社は、東京大学と包括的な共同研究契約を数年前に結んで、大学院工学系研究科を中心に10を超えるさまざまな社会連携講座を設置してきた。その一環として、大学院数理科学研究科附属数理科学連携基盤センターに2021年7月より社会連携講座「冷媒熱流体の数理」が設置された。物理的には、駒場キャンパス内の駒場国際教育研究棟(KIBER)の1階に講座の研究室が設置されている。大学院数理科学研究科では日本製鉄株式会社に次いで2つめの社会連携講座設置であった。製造現場へ直ちに役立つ新技術だけではなく、現象そのものの背後にある数理に焦点を当てようというダイキン工業株式会社の姿勢にはいつも感心させられている。
社会連携講座はいわゆる共同研究だけではなく、教育にも大きな役割を期待されており、いわゆる「共同研究」の枠組を越えたものになるように設計されている。そのため専任教員を何名か置くことが可能である。本講座「冷媒熱流体の数理」では、許本源特任准教授、上田祐暉特任助教と、特任教授である私が専任教員である。さらに、齊藤宣一教授(附属数理科学連携基盤センター長)が兼任教員として講座の運営、発展等にご尽力くださっている。さらに、間瀬崇史助教や、儀我美保特任研究員をはじめ多くの方々の協力を受けている。
本講座の主テーマは、会社名や講座名から容易に推測できるように、エアコンの基礎に関することである。ご存じのとおり、エアコンは、冷媒が液体から気体になる過程で熱を奪い、気体から液体になる過程で熱を放出し、その原理により冷房や暖房として作動する。相転移を利用しているわけであるが、これが流体であることにより問題が複雑である。一言でいうと相転移を伴う熱流体の挙動を解明せよという問題である。熱流体は基本的にはNavier-Stokes-Fourier方程式系でその運動が記述される。それに相転移を伴うとなると、まず支配方程式系の導出それ自体が課題である。特に液相、気相の2相を隔てる界面が壁と交わるところでどのような境界条件を設定するのが適切かどうかはよくわかっていないと思われる。このような状況にもかかわらず伝熱工学では、さまざまな近似則、経験則を用いて温度分布や圧力を推定している。これはとてもすばらしいことである。しかし状況が変わった場合にうまく適用できるか、それらの適用限界が不明確なことなどがある。一方で数値流体力学が発展し、相転移のあるNavier-Stokes-Fourier系を基としたさまざまなモデルについて今日計算が行われ、市販されているソフトウェアもたくさんあるが、同じ現象なのに量的にも質的にも異なる結果になることがしばしばあるようである。実験的に現象を調べることが難しく、データも十分取れないため、どの数値計算がより正しいかを判定することが難しい。したがって相転移のあるNavier-Stokes-Fourier系について数学からの理解を深める努力が必要である。
講座設立から最初の1年間は課題の数学的理解に終始した。時間がかかった原因の一つは、数理科学、熱力学、伝熱工学、化学工学などいろいろな分野で扱われる課題であるため、同じ用語が分野によって異なる意味で用いられていることであった。例えば、ヘルムホルツ(自由)エネルギーといっても、単位質量あたりのもの(比ヘルムホルツエネルギーという)と単位体積あたりのものがあるので注意を要する。しかもその独立変数を温度のほかの変数として、密度とする場合と比体積(単位質量あたりの体積)とする場合がある。細かいことでわかってしまえば問題はないが、計算を行うときは注意を要する。また、これまでわかっている数学と実際知りたいことのギャップが大きいことが多かった。現在関連する数学的課題がたくさん発生しているためそれについて研究を進めている段階である。ダイキン工業株式会社との共同研究はテクノロジーイノベーションセンターの高根沢悟グループリーダーが主催する毎週のオンラインセミナーが主である。数理側が、数学的定式化の方法を示し、ダイキン側が、実験結果や彼らが基としている数値計算や理論を紹介するという形で行ってきた。新型コロナの関係で対面で会合を開けないのが残念であるが、これまでのところ順調である。
さて、社会連携講座は研究だけでなく、教育面の役割も大きい。これについては、2016年度より開始している社会数理実践研究の一翼を担っている。「社会数理実践研究」は、数理科学について深い素養を持つ大学院生たちに、産業や異分野における実際の問題を知ってもらい、それに対してさまざまな数学的アプローチを提案・検討してもらうことである。そして数学的アプローチが現実社会の難題を解決するための鍵となることを、自ら問題に取り組むことにより体験してもらい、産業界や異分野の研究者との議論、共同作業によって専門分野にとどまらないコミュニケーション力を磨くことを目指している。ダイキン工業株式会社は2020年より参加していて、工学上の問題だけでなく、マーケティングの問題も提出している。活動期間が限定されているので、現場に直接つながる成果とまではいかなかったが、それぞれ有益な成果をあげているといえる。この社会数理実践研究ではコーディネータを務めた間瀬崇史助教による寄与が大きい。間瀬崇史助教は、講座のセミナーにおいてもいつも適切な助言を行っている。離散可積分系がご専門とのことではあるがその視野の広さにはいつも驚かされている。
現在講座では、許本源特任准教授の下で、ある種の数値計算の安定化に向けての手法を取りまとめ中である。許本源氏は、もともとはNavier-Stokes方程式の解析を専門としていたが、その後竜巻の数値計算を行い、さらに近年では、波力発電といった産業の問題にかかわるなど、産業との連携に関して豊富な経験がある。上田特任助教は、数値計算、数値解析を専門とされているが、香港や早稲田大学でポスドクとして過ごし企業との共同研究も経験している若手研究者である。彼らはこの講座の特に数値計算面での原動力となっている。市販されているソフトウェアを用いるのでなく数学解析に基づいた簡易型モデルについて、基礎からの計算を行っている。ただ企業との共同研究では求められる結果が、学術的成果と異なる場合も多いので今後どのような形で成果をまとめていくかは課題である。特に本講座のように年限が3年と限られている場合は、通常の数学研究のペースとは、異なる形が要求される。我々の活動が数学界と産業界の距離を大きく縮めるきっかけになることを切望している。