ラボラトリーズ
ウプサラ大学薬学部での数理モデルを利用した研究模様
2013年09月24日
青木 康憲
あおき やすのり
Uppsala University Pharmacometrics Research Group
著者はカナダのウォータールー大学応用数学科博士課程を修了後、2012年9月からスウェーデンのウプサラ大学薬学部でPost Doc.として働いている。本稿では応用数学を学んだ者が薬学という異分野でどのような貢献をできそうかを著者の経験を元に記したいと思う。
著者の所属しているMats O. Karlsson教授の Pharmacometrics Research Group は教官と院生を含めて50人程度の大世帯で主に薬剤がどのように体内で拡散代謝されるか、それに伴ってどのような薬効があるかなどをnonlinear mixed effect model [1]という統計モデルを利用して解析している。
この統計モデルは、基礎研究段階での化合物選択、臨床試験の実験計画、また販売する際の用量選択など医療用薬剤開発の分野で幅広く利用されている。そのため、製薬会社との共同研究が非常に盛んであり、ほとんどの学生が製薬会社から実験データ提供を受けるなどをして共同研究を行っている。実際に著者もAstraZenecaから研究費をいただきながら呼吸器疾患の治療薬の化合物選択のための実験計画や、臨床試験の試験計画を効率化するためのアルゴリズムの開発を行っている。
著者が本研究室において非常に面白いと思ったのが、実際のデータ解析時に発生する問題を数学的に落とし込み、数学的技法を使ってそれを解き、その解法をより多くの問題に適用できるようにし、ソフトウェアに実装し、そのソフトウェアを実際に使用する大学や企業の研究者に対してサポートを行うという一連の作業を研究室内で行っていることだ。
本研究室で扱う数理モデルは、臨床試験などのデータをもとに作られ、患者の個体差などの不確実性も含めた統計モデルである。数学的には逆問題や最適化の手法を利用して最適なパラメタを推定し、また uncertainty quantification の技術を利用して推定誤差なども定量的に求める。そして、データとモデルの調合性を評価しながらモデル式を改善していく。モデル式作成のためのモデルの評価法なども重点的に研究されており、最尤的な評価のみでなく、モデルの予測性能を統計的手法を利用して可視化して評価する様な技法も開発されている [2]。
著者の私見としては、本研究室で行われている研究は理学の研究というよりも、工学の研究で、既に開発させている技法をこの分野で使いやすくする事に主眼を置かれている様に思う。研究の着手から企業レベルでの応用までのタイムスパンも非常に短く、研究着手から一年程度でソフトウエアに組み込まれ、実際の問題に応用されていることも珍しくない。 現在製薬業界ではnonlinear mixed effect model のパラメタ推定に NONMEM というコマーシャルソフトウェアが広く利用されている。 本研究室は PsN [3]というNONMEMの機能拡張ソフトウエアを開発し、新しく開発した技法をそれに実装し提供している。また、実験計画の分野では、PopEDというソフトウェアを開発し提供している [4]。現在著者が開発しているアルゴリズムも最終的には GUI を持ったソフトウェアとして配布することを前提として開発している。そういった意味でも、数値解析の技法を広く知りこの分野に応用するだけでなく、最終的に薬学の研究者に使いやすい様に実装するというプログラミング技術も持ち合わせた応用数学を修めた人材は非常に重宝がられている様に思う。
企業との直接的な関わりもこの研究分野の醍醐味かと思う。データや研究費をもらう事によって利害関係が発生するので非常に注意深く共同研究をする必要があるが、研究結果や新しく開発した技法が迅速に企業内で使われているのを見るのは非常に励みになる。例えば著者の開発しているソフトウェアの初期プロトタイプは既に化合物選択の実験計画に使われており、実際に使ってみたところの経験からさらに望まれるアルゴリズムの改良なども行っている [5]。論文を発表し、その結果が実社会で応用されるのを受動的に待つよりも、研究結果の使用者と密に連携できるPharmacometrics は本当の数学の応用といった意味で応用数学にとって非常に有望な分野だと思う。
著者の一年弱の限られた経験からですら、多くの応用数学的技法の活用方法を着想することができている。実際にUppsala大学の応用数学科と連携し応用数学科内にも Pharmacometrics の研究グループを作ろうという計画も進んでいる。数学を実社会で活用するということに価値を見いだせる応用数学者にとって Pharmacometrics は手の届くところに多くの果物のある魅力的な分野かと思う。
[1] Mary J. Lindstrom and Douglas M. Bates, Nonlinear Mixed Effects Models for Repeated Measures Data, Biometrics, Volume 46, No. 3, 1990, page 673-687
[2] Martin Bergstrand, et al. Prediction-Corrected Visual Predictive Checks for Diagnosing Nonlinear Mixed-Effects Models, The AAPS Journal, Volume 13, Issue 2, 2011, page 143-151
[3] Lars Lindbom, et al. PsN-Toolkit—A collection of computer intensive statistical methods for non-linear mixed effect modeling using NONMEM, Computer Methods and Programs in Biomedicine, Volume 79, 2005, page 241-257
[4] Joakim Nyberg, et al. PopED: An extended, parallelized, nonlinear mixed effects models optimal design tool. Computer Methods and Programs in Biomedicine, Volume 108, Issue 2, 2012, page 789-805
[5] A., et al. PopED lite an easy to use experimental design software for preclinical studies. Poster presented at Annual Meeting of the Population Approach Group in Europe (www.page-meeting.org/?abstract=2740)