学会ノート

三村さんの思い出

2021年07月22日

小林 亮

こばやし りょう

広島大学

三村さんの経歴や業績の数々に関しては、どなたかがきちんと書かれるであろうと期待して、ここでは私自身の思い出を中心に語らせていただきたいと思います。

私が一番最初に職を得たのは、広島大学の三村研究室の助手としてでした。1982年のことです。三村さんには赴任して初めてお会いしたのですが、第一印象は「えらいダンディーでカッコええ人やな」というものでした。次にわかったのは、本当に勝負事が好きな人だということです。もちろん大の負けず嫌いで、勝負になると熱くなるというタイプ。当時、数学科教官チームでソフトボールを一緒にプレーしていたのですが、特に印象に残っているのは、親睦の数学科ソフトボール大会で起きた「お二人様病院送り事件」です。我々のチームは結構大人げなく勝ちに行くチームで、1塁ランナーが2塁に走る間に3塁ランナーが本塁を奪るという連携プレーをよくやっていました。この時は相手チームの巨漢キャッチャーの反則気味のブロックに阻まれて3塁ランナーが膝を壊してしまいました(後に骨折と判明)。それを見た三村さんは「許さん! 俺が手本を見せてやる!」と怒り出し、あろうことか次の回に3塁ランナーとして出塁し、同じように本塁に突っ込んだのです。結果は、またもスライディングをブロックされて、膝の半月板が粉々に砕けるという散々なものでした。親睦のソフトボールなのにホームスチールを敢行するとは実に大人げない所業と言わざるを得ませんが、三村さんらしいといえばいえる話です。結局、膝がクラッシュしたお二人を広島大学附属病院に私の車で運び込む羽目になりました。その時、三村さんの膝の手術とリハビリを担当したのが、広島大学の越智現学長(当時は助手)です。リハビリのあまりの辛さに、三村さんは「お前は助手で俺は教授なんだから、もう少し優しくしろ」と抗議したのですが、全く取り合ってもらえなかったというのは後日談です。

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学内大会で優勝した時の数学科教官チーム
(前列右から2番目が三村さん、左から2番目が著者)

さて、情けないエピソードから入ってしまいましたが、研究の話もしましょう。当時の三村研には、物理・化学・工学と様々な分野の研究者が頻繁に出入りしていました。共通するキーワードは「非線形」だったと思われますが、後にそれぞれの分野で名を成すような方々ばかりです。今にして思うと、三村さんの研究者を見定める目と人的ネットワークを作る力は当初からすごかったということがわかります。そしてこの人たちが、実に面白いさまざまな現象を私たちに見せてくれるのです。これは本当に刺激的な環境でした。こんな環境を作るということは、この頃から三村さんには現象をモデリングを通して理解したいという強い指向性があったはずです。その一方で、純粋な数学のスタイルに対する強いこだわりもありました。これは本人がよく語っておられたことですが、若い頃に「非線形をやるやつは、線形の数学から落ちこぼれたやつである。これを非線形落ちという。」と言われたのだそうです。このことが三村さんの負けじ魂に火をつけたのは間違いありません。「純粋数学のやつらに俺のやっていることを意地でも認めさせてやる」と誓ったとのこと。このことが厳密な証明へのこだわりの根底にあったように思います。そんな二面性を持った三村さんがとったスタイルは次のようなものでした。興味深い現象を見つけてモデリングをして、シミュレーションを通しモデルの妥当性を検証し、現象の背後にあるメカニズムを解明する。その一方で、モデルの中から数学的に厳密に扱える部分を取り出して(もしくはそのようにモデルを作って)それに証明を与える。しかも、その証明は必ずしも自分ではなく、多くを他の人にまかせる。という、問題メーカーともいうべきスタイルです。これはかなりユニークな立ち位置で、よほどのセンスがないとできない仕業と言えるでしょう。三村さんは博士課程の時に指導教官である山口昌哉先生から1度だけ「君は数学と音楽のどちらを取るつもりなのかね」とえらく叱られたのだそうです。もちろん数学を選ばれたわけですが、もし音楽の道に進んでいたとしても、この研究スタイルを見ていると、きっといいプロデューサーになれたのではないかと想像してしまいます。

私は色々なことで三村さんのお世話になっているのですが、そんな私にできた最大の恩返しは、三村さんをテニスに誘い込んだことでしょうか。少なくとも現役時代は趣味のほとんどない方でした(学生時代の話を聞くと本来は多趣味のはずなのですが、やりだすとのめり込み過ぎる自分の性格を考えて封印しておられたと思われます)。しかし、テニスだけは例外としてかなり長い期間にわたって楽しんでもらえたと思います。やはり、技術と戦術を駆使して勝ち負けを競うというこのスポーツの性格が、三村さんの好みにぴったりハマったのでしょう。2人の息子さんにもテニスは伝搬して、2人ともかなりのレベルのプレーヤーに育ったと聞いています。ちなみに、三村さんは球技に関しては抜群のセンスの持ち主でした(ソフトボールチームでも常に首位打者)。あのサウスポーから打ち出されるするどいサーブに往生させられたのが昨日のことのように思い出されます。

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眼光鋭くボレーを狙う三村さん

東京大学におられた頃には、生物の本多久夫さん、物理の関本謙さん、三村さんと私の4人で東京模型倶楽部という small seminar(兼飲み会)を駒場でよくやっていました。そこでは模型倶楽部の名の通り、いろいろな現象のモデリングについて縦横に議論を楽しませてもらいました。それを横で聞いていた若者が北海道大学の長山雅晴さんです。当時の三村さんには、モデリングのできる応用数学者を育てたいという気持ちがあったのだと思います。その期待のせいか、思い返すと長山さんは今だったらパワハラかというくらいの勢いでよく叱られていました。基本的に自分の直弟子には実に厳しい人でした。その後、広島大学にカムバックされるのですが、そこでは数理分子生命理学専攻(現数理生命科学プログラム)という、数理科学と生命科学の融合研究と教育をミッションとする専攻の立ち上げを主導されました。

明治大学に移られてからの三村さんとは、明治大学と広島大学が協力して研究・教育のプロジェクトを取りに行くという形で共同戦線を張ることが多々ありました。プロジェクトは通るか通らないかの勝負ですが、やはりこういう勝負の形になると三村さんは本当に生き生きしてくるのです。この一連の勝負の集大成はやはり GCOE を明治大学にもたらしたということだったでしょう。そして日本に応用数学の拠点を築くという積年の夢を MIMS という形で実現されたのです。「現象数理学」という旗も立てました。加えて中野には新キャンパスができ、総合数理学部・先端数理科学研究科と「数理」の名のつく学部・大学院が立ち上がりました。もちろんこのような大仕事は三村さん一人の力で為せることではありませんが、三村さんには多くの人を巻き込んで大きな流れを作り出すパワーがあるのだと思わざるを得ません。よく、誰それの通った後にはペンペン草1本生えない、という表現がありますが、三村さんが通った後にはいろんなものが生えるんですね。先述の数理分子生命理学専攻も然り。もちろん、後進という「人」が最大の遺産とも言えますが、ちゃんと入れ物(食い扶持)まで残していくというのが、三村さんのすごいところです。

個人的には、ずっと全力で走り続けてきた三村さんがゆっくりと歩いている姿(なかなか想像できませんが)も見たかったという思いはあります。現役を退き広島に帰られて、キーボードとウクレレを始められと聞いて、やっと音楽の封印を解かれた( = 今度こそ本当に引退する気になられた)んだなと感じました。それなのにこんなに早く逝ってしまわれるとは …  一緒にセッションをすることを楽しみにしていましたが、それが叶わなかったことが本当に心残りです。

合掌。