学会ノート
三村先生を偲ぶ
2021年07月22日
俣野 博
またの ひろし
明治大学先端数理科学インスティテュート
三村昌泰先生が4月8日に亡くなられたという報せが届いたのは,その日の夜でした. 2月にメールを交換したばかりだったので,突然の訃報はショックでした.三村さんの生前の笑顔や,応用数理の将来を熱く語っておられた姿を思い出すと,亡くなられたことが半ば信じられないという気持ちが,今も心のどこかにあります.
三村さんに初めて会ったのは1975年,私が京都大学理学研究科の修士課程に入学して間もない頃でした.指導教官の山口昌哉先生から最初に出された課題は,ソ連の数学者3名が1937年に発表したフランス語の論文(Kolmogorov-Petrovskii-Piskunovによる拡散進行波の論文)の内容を解説せよというものでした.この論文は,今では英訳も出版されている有名な論文ですが,当時の私には,拡散方程式に進行波が存在するという話も初耳で,しかもフランス語を履修していませんでしたので,辞書を片手に四苦八苦しながら読みました.きちんと読めたか自信がないまま2週間後に山口先生の研究室を訪ねると,山口先生の他に二人の先生が私を待っていました.そのうちの一人が,当時甲南大学の助教授をしていた三村さんで,もう一人が当時大阪市立大学におられた亀高惟倫さんでした.教官3名の前で,内心どきどきしながら私が講義するという形のセミナーが何回か続き,三村さんとも少しずつ親しくなっていきました.
山口先生は,理学部を卒業後,京大工学部で教鞭を執り,68年に理学部数学科に戻られました.三村さんは山口先生の工学部時代のお弟子さんで,私にとって同門の大先輩にあたることを後で知りました.その頃,三村さんは,離散化された反応拡散系の解の有界性などの研究をされていました.しかしこうしたテーマは,70年代当時の日本の数学界では真っ当な研究対象と見なされておらず,そうした風潮のせいか,三村さんが研究のことでときおり悩んでおられるのが私にも伝わってきました.
その年の夏か秋だったと思います.他県で開かれた合宿セミナーの帰りに,私は三村さん・亀高さんと同じ列車に乗り合わせ,向かい合わせの4人掛けの座席に3人で座りました.いろいろ話をするうちに,三村さんが,「もし,あと一年数学を続けて芽が出なかったら,きっぱり数学をやめようと思う」と,しみじみとした口調で言いました.亀高さんが,数学をやめて何をするつもりなのかと尋ねると,三村さんは,「喫茶店のマスターをしてみたいと思うてる.実は,前々から,いっぺんこの仕事をやってみたいと思うてたんよ」と答えました.すると亀高さんは,「喫茶店のマスターか,自分には無理だけど,三村君は器用だから,できるかも知れないね.いや,きっと君に向いていると思うよ」と,うなずいておられました.修士1年生だった私は,二人の会話をただ黙って聞いていました.
その翌年,三村さんに大きな転機が訪れました.オックスフォード大学のJames Murray 教授の研究室に,1976年から77年2月まで約1年間滞在することになったのです.オックスフォード大学の数学科では,生物モデルの数理的研究が盛んに行われていました.これは,当時の日本の大学の数学科では考えられないことで,三村さんにとって新鮮な発見でした.また,三村さんの研究を理解し,興味を持ってくれる人が周囲に多くいたことも,三村さんの大きな励みになったようです.オックスフォード滞在中に三村さんは,自分が進むべき方向をはっきりと見定められたのだと思います.先日,オックスフォード大学のPhilip Maini教授を通じて三村さんの当時の様子をMurrayさん(90歳でご存命)に尋ねたところ,次のような返事が届きました. “Mayan spent pretty much of the whole academic year in Oxford working with me and became totally absorbed by math. biology.”
その頃私は,M2の夏になっても修論のテーマが一向に決まらず,次第にあせり始めていました.実は,三村さんの渡英と前後して,山口先生も9ヶ月の予定でフランスのレンヌ大学に出張されたので,指導教官が長期間不在のまま,時が過ぎていきました.そんな夏のある日,三村さんが突然イギリスから一時帰国するという連絡が入りました.報せを聞いて,当時山口先生の助手をしていた田端正久さんや博士課程2年生の西浦廉政さんら何名かと一緒に京大数学教室で三村さんに会いました.一時帰国の理由は覚えていませんが,たぶん,何か急な用事があったのだと思います.イギリスから戻った三村さんは,以前とは別人のように自信と気迫に満ちていました.イギリスの土産話もそこそこに,三村さんは黒板の前に立つと,自分が新しく考えついた数学の問題を次から次へと語り始め,私たちも熱心に聞き入りました.そのとき三村さんが語った幾つかの未解決問題の一つに私はとくに興味を引かれました.その問題自体は数日で解決できましたが,それを多次元に拡張した問題を数ヶ月間考え続けて,ようやく年明けに解決できました.これが私の修士論文となり,この論文を書いたことが,その後の私の研究人生に決定的な影響を与えました.三村さんがイギリスから一時帰国していなかったら,もちろんこの修士論文は書けませんでしたし,その後の私の人生も,まったく違ったものになっていたかもしれません.
その後,私は東京大学理学部の助手に採用されて京都を離れ,三村さんも広島大学に異動されたので,顔を合わせる機会が少なくなりました.しかし1982年に私は広島大学で三村さんの講座の講師・助教授を務めることになりました.その年の終わりには,小林亮さんも助手として加わり,講座もにぎやかになりました.1988年に広島を離れるまで,充実した6年間を過ごすことができました.
1988年に私は東京大学に戻りました.しばらくして全国の国立大学に大学院重点化の波が押し寄せ,東大でも理学部数学教室と教養学部数学教室などが母体となって大学院数理科学研究科を発足させました.それを機会に,応用数理部門を強化するため三村さんを東大に呼ぼうという話が持ち上がり,一度目は断られましたが,翌年,当時の研究科長をしていた岡本和夫さんと私が広島に出かけて説得し,1993年から東大数理科学研究科に来てもらいました.ただ,東大の空気がどこか三村さんの肌に合わなかったのか,結局1998年にまた広島に戻られました.
2003年の3月に,三村さんとCNRS/パリ南大学のDanielle Hilhorstさんと私が世話人になって,ライデン大学のローレンツセンターで「生命科学における複雑パターンの数理的解明」という国際研究集会を開催しました.世界各地から多くの参加者が集まり,会議は大盛況でした.下はそのときの写真です.私が撮影しました.三村さんのすぐ後ろに立っておられるのは,数理生態学者の重定南奈子さん(当時奈良女子大学)です.
この研究集会の成功を受けて,私たち3名は,日仏間の国際連携を本格的に推進しようということで意見が一致し,グルノーブルのJacques Demongeot氏も世話人に加えて,フランスCNRSの公式プログラムとしてReaDiLab事業を立ち上げました.日本側の代表は三村さんと私が務めました。現在はReaDiLabの後継事業として,日・仏・韓国・台湾の研究者をメンバーとするReaDiNet事業を続けており,国際研究集会を毎年開くとともに,メンバーどうしの研究交流を進めています.下の写真は,韓国の済州島で2018年11月に開かれたReaDiNet会議の終了後に,明治大学の小川知之さんと一緒に撮りました.
三村さんは,以前から数理を基軸とする学際研究の中核拠点を作りたいと望んでいました.2004年に明治大学に移られて,ようやく長年の夢が実現し,2007年に明治大学先端数理科学インスティテュート(MIMS)が誕生しました.三村さんの学問に対する情熱と信念,そして実行力が,MIMSを生む原動力になったと思います.三村さんにとって,MIMSは,まるで我が子のような存在だったと思います.
2017年3月にMIMS創立10周年を記念して, MIMS International Conference on “Reaction-diffusion system, theory and applications” という国際会議が開かれました.ポスターセッションの後に音楽演奏の楽しい余興を入れるなど,海外からの参加者にも大好評でした.写真はそのときの様子です.三村さんと一緒に写っているのは,三村さんの長年の友人であるローマ・サピエンツァ大学のAlberto Teseiさん夫妻です.
三村さんからお誘いを受けて,私は定年直前に東大を辞めて明治大学に移りました.MIMSは,学際研究の拠点らしく,分野の異なる人どうしが一つ屋根の下で働いていますが,三村さんの個性を反映して家族的な雰囲気に包まれており,ここに来られてよかったと思っています.三村さんは,わが国における応用数理学分野で強いリーダーシップを発揮し,多くの若手研究者の育成にも貢献されました.研究面だけでなく,三村さんの人間的魅力に惹かれて集まってきた人も多いと思います.三村さんという大きな求心力を失った今,残された私たちにできることは,三村さんの思いをしっかり受けとめて,その夢をさらに大きな形で実現できるよう力を合わせていくことだと考えています.三村先生,本当にありがとうございました.安らかにお休みください.