学会ノート

加古 孝さんを偲んで

2021年06月09日

三井 斌友

みつい たけとも

名古屋大学名誉教授

春まだ浅い3月2日,加古孝さんの訃報が届いたとき「早すぎる」と筆者は天を仰いだ.Covid-19 感染拡大のため,一年以上直接お会いする機会を逸していたまま,旅だってしまわれたことが悔やんでも悔やみきれない.ここに追悼記を執筆する機会をえたので,思い出を記して加古さんに捧げたい.

加古さんとのご縁の始まりは,大学で同じ学科を卒業した同窓生であることにあった.東京大学教養学部基礎科学科,通称「基礎科」である.1962年4月設置のこの学科は,66年3月に最初の卒業生,第一期生を送り出したが,筆者は第二期生,加古さんは第四期生である.第二期生のなかに大隅良典君がいるように,学科自身が「小理学部」的性格をもっていて,様々な分野の研究室を擁していた.卒業研究から修士課程まで筆者が属したのは,古屋茂先生が主宰する数学研究室であった.筆者が修士課程二年次に進んだ68年4月,加古さんが卒研生の一員としてこの研究室に加わった.普通であればここで「濃密な」同窓生,研究室仲間の認識が深まるところであったが,この時東京大学全体が「大学紛争」の渦中にあり,キャンパスには緊張の雰囲気が満ちる尋常ならざる時代であった.そのため,加古さんが研究室に加わったことを知ってはいたが,あまり深い交流ができないうちに69年4月筆者は京都大学数理解析研究所に就職して,基礎科を離れてしまった.加古さんは入れ替わりに修士課程に進み,二年後には博士課程にも進む.この間に古屋先生が本郷に移り,代わって黒田成俊さんが教授に着任し,数学研究室の陣容も変化があったが,加古さんは力を認められて研究室の助手に採用される.筆者の記憶では,基礎科卒業生のなかで学科教員に採用された第一号であった.

加古さんとの交流が再開するのは Computation and Analysis Seminar (通称 C & A Seminar)であった.筆者が京都に移った頃,京都大学を中心として応用数学に関心を向け,それを新たな研究方向として育てることを意識した若い研究者が集まり,交流組織として 1969年8月 C & A Seminar を結成した.定例研究会,夏の合宿研究会,会報発行などの活動を展開するなかで,各地から新会員加入が続き,全国組織へ成長し,現在の日本応用数理学会 (JSIAM) の「源流」の一つと考えられている.いつのことか記憶が定かではないのだが,当時埼玉大学に勤務していた加古さんも C & A Seminar に加わり,研究会に出席するようになった.卒業学科同窓の加古さんが加わったことを,筆者は頼もしく感じた.当初の加古さんの研究上の興味は,函数解析的手法による散乱問題のスペクトル解析にあったと記憶している.そこから次第にMHD プラズマ挙動の解析,逆問題へ,そして数値解析手法へと興味の幅を広げていった.1985年から翌年にかけて加古さんは,Lausanne のスイス連邦工科大学ローザンヌ校 (EPFL) の Alfio Quarteroni のもとで在外研究に従事した.この時の充実した,またワインを楽しむ生活を C & A Seminar で加古さんが笑顔で語ったことを懐かしく思い出す.

研究面における加古さんとの交流で思い起こすのは,日中数値数学セミナーのシリーズである.1992年8月北京で第一回を行ったこのシリーズ China-Japan Seminar on Numerical Mathematics (CJNM) は,その後韓国の研究者も加わり,現在は日中韓セミナー CJKNM として隔年で開催されている.加古さんは第一回こそ参加しなかったが,2年後電気通信大学を会場に開催された時には主催者 (organizers) の一員として実務を切り盛りして大活躍したし,その会議録 (proceedings) の編集者の任に当たった.シリーズの「常連」となった加古さんは,この場を通じて同じ研究課題に興味をもつ東アジアの研究者との交流を広げていった.2004年8月の第 7 回 CJNM は,中国湖南省の張家界 (Zhang-Jia-Jie) で開催された.渓谷・絶壁が連なって世界遺産に登録されている張家界はやはり見どころ多数で,セミナー中日の excursion では皆でこうした名所を見学した.他の参加者同様,加古さんも大いにはしゃぎ(もちろん筆者もそうであった),絶壁にへばりついている回遊散歩道を一緒に歩きながら,崖下を指さし「見て下さいよ,この高さ」と柵から身を乗り出さんばかりで,はらはらさせられた.写真はその時のスナップである.カメラアングルがまずくてわかりにくいかもしれないが,断崖先端の手すりに拠っているのが加古さんである.

1980年代後半から設立に向けての検討と準備が始まった JSIAM は,88年度に設立準備委員会が立ち上がり,89年度後半には翌年4月設立総会をめざして作業が急ピッチで進んだ.学会設立発起人が全国の研究者に呼びかけて組織されるが,加古さんも,そしてまた筆者もその一翼を担ったし,設立後は共に学会評議員に選出された.91年4月電気通信大学に移った加古さんは,さらに一層 JSIAM 創設後のもろもろの作業を担うこととなった.理由の一つは,設立準備の段階からコアメンバーとして活動し,設立後は学会理事となった電気通信大学の牛島照夫さんの同僚となったことにあったのだと推察する.実際,JSIAM 設立総会は電通大を会場に開かれたのであった.実は牛島さんは筆者が在学時,基礎科数学研究室で助手を務め,1972年10月に電通大に移ったので,加古さんとは基礎科つながりという面もあった.加古さんは学会の組織運営にその能力を遺憾なく発揮する.1999年4月には JSIAM 理事に選出され,筆者とは理事会で一緒に仕事をすることとなった.2001年4月から 06年3月まで5年間加古さんは学会論文誌編集委員長を務める.この時期には,社会一般や学術団体全体で電子化が進んでいて,学会論文誌も電子化を推進する方針の下で,投稿規定の見直しを行い,さらにはオンライン公開を目指す重要な段階にさしかかっていた.この段階に的確な指導性を発揮し,編集委員会をまとめるとともに,理事会で提案・説明を行う加古さんの姿は,学会会員の信頼をえるに十分であった.

この時期,筆者は加古さんと日本数学会応用数学分科会運営でも協力した.数学会では「分科会選出評議員」各 2 名が,支部選出評議員とともに評議員会を構成し,学会の重要事項を審議・決定する.しかし,応用数学分科会では評議員決定過程があまり明確ではなく,前年度評議員が指名して決まる「習慣」が続いていた.これはまずいのではないかと加古さんは考え,在任中の1999 – 2000 年度に,分科会登録学会員の投票によって,まず分科会委員を選出し,その互選で評議員を決めるという改革案を提起し,それを実現させ,新制度に移行させた.筆者は 2000 – 01 年度評議員として改革案推進を共同した.これは単に制度改革に留まらず,委員を通じて分科会運営に広く会員の意見を反映させ,分科会活動の活性化をもたらすことになった.こうした学会運営の民主化にも,加古さんは鋭い感覚を有していた.

このような学会運営への貢献から嘱望されて,加古さんは2012年4月から13年3月まで日本応用数理学会第 23 代会長を務める.この年度の学会の大きな課題が法人化の実現であった.JSIAM は法人格をもった学術研究団体ではなく,いわゆる任意団体として出発した.他の有力な学術研究団体が社団法人として認可されていることを考慮して,JSIAM も法人格をもつべきであるという議論は創立当初からあり,その準備として基金(基本財産)の設置や,毎年度の事業計画に「法人化の検討」の課題が掲げられてきた.しかし,学会などの法人認可の主務官庁である文部科学省の当時の認可基準では達成困難な条件もあり,また一方法人格を取得することによるメリットとデメリットを比較すると,直ちに法人認可申請に移るべきかどうかに疑問も呈され,申請過程に踏み出さずにいた.しかし,2006年6月公布の公益法人制度改革三法によって,一般社団法人として JSIAM を法人化する展望が開けてきた.もちろんその実現のためには学会理事会・評議員会などでの討議と,慎重な準備が求められた.ことに学会事業会計を制度が求めている基準に沿ったものに移行するには相当の準備が必要と見られた.筆者は 2007年度から翌年度にかけて理事会にいた(2008年度は会長を務めた)が,法人化問題に関する調査報告をまとめ,法人化は達成すべき課題ではあるが,そのために準備する事項は多く,学会全体の合意と,法人化移行のための制度上の準備を行うべきとし,以後の理事会にその達成を託した.以降 3 年間の準備を経て,加古さんが会長として最終決断を下し,法人化が実現した.もちろん JSIAM の学術的内容は法人化によって変わるものではないが,たとえば学会年会などの学術的会合の参加登録料納入がクレジットカードで可能になるといった,実務面の便宜の意義は小さくなく,いわば学会としての「信用度」が向上したのである.JSIAM に対する加古さんの大きな貢献の一つと,筆者は考えている.

JSIAM の学術的活動でも,加古さんは「科学技術計算と数値解析」研究部会 (SCNA) の設立発起人代表を務め,部会は 2002 年度に発足することができた.筆者も呼びかけられて発起人に加わったが,加古さんが組織するのだからという「安心感」があった.2002年9月慶応大学矢上キャンパスでの年会で,SCNA が組織する最初のオーガナイズドセッションが開催され,加古さんは冒頭「科学技術計算と数値解析に関するネットフォーラム構築の試み」と題して講演した.電通大において加古さんは多くの学生・院生を育ててきたが,そうした経験のなかからネットワークの必要性を痛感したのであろう.A. Quarteroni の紹介もあったのかもしれないが,彼の共著の翻訳をして「MATLAB と Octave による科学技術計算」(千葉文浩さんとの共訳,丸善出版,2014)を刊行したのも,この趣旨・流れのなかにあったのだと思う.

応用数理の研究・教育はもとより,学会の発展に大きな貢献を成し遂げた加古さんを失ってしまったことは痛恨の極みである.点鬼簿にまた友を加えなければならなくなったことを嘆きつつ,加古さんのご冥福を祈ってやまない.

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