学会ノート
伊理正夫先生追悼特集(4):伊理正夫先生を偲んで
2018年10月20日
藤重 悟
ふじしげ さとる
京都大学 数理解析研究所
数理工学の深みを極め世界の研究をリードされてきた伊理正夫先生がお亡くなりになり,さらにご指導していただく機会が無くなったことを思うと,痛恨の極みであり,深く悲しい気持で一杯になります.
伊理先生への追悼に際し,直接的に近くでご指導いただいたのは比較的短い期間ではありましたが,私が先生と接して感じたいくつかのお話の一端をここに記し,伊理先生のお人柄を偲び,先生への感謝の気持を皆様と共有する機会になれば幸いと存じます.
私は,博士課程まで京都大学で学び,すぐに助手として伊理先生の下で働き始めたのが1975年4月でした. 伊理先生の下で始めたマトロイド最適化の研究に魅せられて今日に至っています. 伊理先生と巡り合えた幸運を心より感謝し嬉しく思っています. 伊理研に仕えたのは5年間(最後の年度途中から筑波大学へ転任し講師併任)という短い期間でしたが,その間並びにその後に亘る先生から賜ったご指導は,私の教育・研究者としての諸活動に決定的な影響を与え,それによって今日の私があると言っても過言ではなく,常に伊理先生への感謝の気持を持ち,教育・研究に励んできました.
1975年の着任当初は,1年で京都に帰るようなことを想定し,伊理先生からは何を研究しても構わないから自由に研究するようにと言われたのですが,伊理先生の偉大さがすぐに理解されたので,この貴重な機会に伊理先生のやられている研究を理解したいと思って,グラフ理論,ネットワーク理論やマトロイドの勉強を始めました. そして,その面白さにのめり込むことになった次第です.
伊理先生は,学術著書として高く評価されている洋書や和書を単著で書かれていますが,教育者としてのお考えから,多くの和書や訳書を奥様や他の研究者との共著・共訳で世に送り出されています. 伊理先生の下で研究を始めた当初, Busacker-Saaty, Hu, Liu などの著書の訳本は手軽に読めて大いに助かりました. また,電子通信学会(当時)の機関誌に書かれていた解説「グラフ理論とその応用[I]〜[V]」にも助けられました. (その後,私自身も,伊理先生の和書2冊のお手伝いをしましたが,いずれも先に極めて詳細な目次の原案を示していただき,ほとんどそのままの流れで本が完成しています. )
当時,マトロイド最適化に関する伊理先生と冨澤信明氏の共同研究が精力的に進められて,電気回路網の一意解の存在や回路網複雑度に関する未解決問題をマトロイドの観点からの統一的アプローチで解決するなど,活気にあふれていました. また,Eugene Lawler の(今や著名な)本のタイプ打ち原稿のコピーが研究室にあり,これを刊行前に読む機会に恵まれたのも幸いでした.
研究に関しては,どんなにお忙しいときであっても,オフィスにおられるときに予約なしに急に訪ねても必ず丁寧に話を聞いてくださり,常に的を射た有益なコメントをしていただき,そこから研究が大きく進み展開したことが幾度となくありました. そして,研究室輪講は,伊理先生からコメントを頂戴するために研究発表する貴重な場となり,発表者と先生との議論だけで輪講が終わるような状況でした.
伊理先生と冨澤さんの共著論文で,マトロイド最適化の一つの頂点にあるものとして,独立割当問題に対するプライマル・デュアルなアルゴリズムが提案されており,印刷刊行前の論文を読むことができました. そて,1976年2月頃に プライル・アプローチでどのようなアルゴリズムが構成できるかを論じて英語の原稿を書き,伊理先生に見ていただきました. その結果,真っ赤に書き込まれ添削された原稿を示され,私が伊理先生との共著として記載した先生のお名前を,私の目の前で削除され,単著で書くようにと指示されました. 当該研究に関しては,事前に議論していただいており,京大時代の経験から当然共著論文にするべきものと理解していましたが,そのとき単著で書くように言われたことは,京大と東大計数の文化の違いを非常に感じる一種のカルチャーショックであり,伊理先生の研究への自信と姿勢,さらには研究者としてのお人柄が私の心に強く刻まれた“出来事”でした.
一方,1976年の春になり,私を京都大学へ戻す約束が反故になったと伊理先生が大変困ったご様子でしたが,私自身は何も状況が分からず困惑していました. しかし,しばらくして伊理先生から関東の人間になるよう言われ, そこで,マトロイド最適化をライフワークにする決心をし,その後もしばらく先生のすぐそばで研究が続けられたのは,個人的には大変な幸運でした. その後,講師にしていただいて,計数工学科の教育にも関わり,先生のご指導の下に講義ノートを作成し色々なことを知る機会を得て,大変自分自身の勉強にもなりました. (講義は,その内容について自分で分かっていることの2割か3割について話すくらいの余裕がないといけないと思うが,ほど遠い状態で使っていただいた先生に感謝する一方,当時受講した学生諸君にとって“良い”講義になったのかどうか,まったく自信がありません. )
1967年の岸・梶谷のグラフの三分割から始まって,伊理先生の行列や冨澤さんのマトロイドの基本分割の理論へと発展し,1974年には基本分割の精緻な理論が完成の域に達していました. その当時,マトロイドの一般化であるJack Edmondsのポリマトロイドが日本ではまだ知られていませんでしたが,1976年の秋に,独立割当問題のポリマトロイドによる一般化とアルゴリズムの研究を始め,私が研究室輪講で何回か連続して話をし,伊理先生から多くのコメントをいただき,その年の暮れの電子通信学会の「回路とシステム」研究会で発表することができました. このときの研究から,マトロイドの基本分割がポリマトロイドの観点から素直に理解できることも示し,その後の伊理先生らのポリマトロイド対の基本分割などを始め,我々弟子や孫弟子による一連の研究の展開へと繋がりました. 伊理先生には,基本分割の理論を日本発の理論として大事にしたいとの強いお気持ちがありました.基本分割は,極めて重要で文字通り基本的なシステム分解の理論であり,現在もなお多くの研究に関わって,基本分割の理論がしばしばそれと気付かれずに再発見され使われたりしています.
伊理先生の下で計数工学科に奉職した5年の間,いわゆる雑用というような仕事の指示や要請はまったく有りませんでした. それで自由な研究をさせていただけて大変有難かったのですが,私に対する一種の遠慮のようなものを感じていました. しかし,後に知ることとなりましたが,伊理先生が博士課程を修了されてすぐに九州大学の通信工学科の助手・助教授になられて2年半後に計数工学科にもどられるまでの間,大野克郎先生の下で与えられた自由な研究環境に感謝されていたことを知り,そのときの恩返しの一つとして(他大学から呼んでいただいた)私に対しての接し方であったと理解しました. その後,さらに立場を変えての私の若手研究者への接し方にも決定的な教えにもなっています. 改めて伊理先生のご配慮に感謝する次第です.
筑波大学へ転任後になりますが,Éva Tardos が最小費用フロー問題の強多項式アルゴリズムを得たworking paper のコピーを1985年の1月頃に伊理先生から,とある研究会の席で見せていただきました. Edmonds-Karp の弱多項式アルゴリズムが発表されてから伊理先生にも関心のあった課題で,私も関心を持っていることを心に留めていてくださり,声をかけていただいたのはありがたかったです. (その当時は,現在のようなアーカイヴでの研究情報発信は勿論無くて,発表前の論文のコピーを主要な研究者に郵送して研究をアピールするような時代であったので,重要な成果を早めに知るのは難しい状況でした. ) そのTardos の論文を読み,強多項式アルゴリズムへのアプローチの斬新さに感動し,その理解の上で,木を用いた自分なりの組合せ的な,より速いアルゴリズムを得ました. このことで,最小費用フロー問題のアルゴリズム研究のその後の発展に少しだけでも貢献できたのは,伊理先生のお陰です.
また,伊理先生と親交のあった海外の方々の存在も私の研究活動の大きな支えとなりました. 1982年の夏からボン大学のBernhard Korte教授のホストでドイツに長期滞在でき,私とほぼ同年代の多くの優秀な海外の研究者達と交流ができたこと,そして,その間に,Peter Hammer教授に会う機会を持てて,後に,North-Hollandから Submodular Functions and Optimization のモノグラフを著す機会をいただきました. その著書を出版した際には,Amsterdamで1991年に開催のISMPの会場で本が展示されたのを伊理先生がご覧になり,励ましのお言葉をいただいたのを嬉しく思い出します. そして,1978〜79年にAndrás Recskiさんが伊理研に滞在し,計数工学科2階のオフィスを二人でシェアしました. このRecskiさんの伊理研滞在がその後の離散数理と応用に関するHungary-Japan workshop の2年毎の開催に繋がっています.
まだまだ言い足りないことが多々あり,いろいろ思い出すと感謝の気持で一杯になりますが,私は,数理工学に対する伊理先生の思想を少しでも次世代に繋ぎ生かして行くために,微力ながら,歳を取っても“研究寿命”が尽きるまで研究を頑張ることで,先生への恩返しをしたいと思っています.