学会ノート
森正武先生追悼特集(3):偲ぶ言葉
2017年12月05日
河原田 秀夫
かわらだ ひでお
千葉大学名誉教授
1. 東大工学部 列品館時代
1960年代の初期、私は東大工学部力学教室で石津武彦先生の指導の下で原子核構造の勉強しておりました。同室には犬井鉄郎先生の指導の下で物性物理学を専攻していた花村栄一さんがおりました。彼がある時雨宮綾夫研究室の森正武さんという秀才が入って来るという話をしていました。それが森さんと私との最初の出会いでした。当時森さんは原子分子理論の研究と同時に実験もしておりました。安保闘争が激しさを増している時代でした。そんな折我々は列品館の隣でキャッチボールを楽しむ機会がありました。彼が暴投して列品館の窓ガラスを割ってしまうという出来事がありました。その時何故か平謝りに謝ったのは私でした。
2. 応用数学への転向
我々が力学教室の助手時代に藤田宏先生が理学部から移ってこられました。助手達の数学力向上を目指すセミナーが藤田先生によって開催されました。 このセミナーが我々が応用数学に転向する大きな契機になったことは疑いありません。それ以来現在に至るまで藤田先生とのお付き合いが始まります。彼の業績に大きな影響を与えた高橋秀俊先生との出会いも当時であったと記憶しております。仲介したのは國井利泰さんだったと思います。
3. 東南アジア歴訪
その後、彼は京大に移りましたが、彼とタイとシンガポールに旅した思い出はとても印象に残るものでした。チェンマイでは魔のトライアングル、すなわち3国国境地帯への旅は文明の果つる地域を垣間見たとても印象に残るものでした。バンコックからタクシーを雇ってパタヤビーチまでドライブし、当地で実弾射撃という得難い経験をしました。シンガポールではセントーサゴルフクラブでゴルフを楽しみました。勿論各地で開催された国際シンポジウムで両者が有意義な講演を行ったのは言うまでもありません。この旅行を契機に彼の人柄に大らかさというか大胆さが加味されたのではないかと私は感じております。
4. 時代からの課題を適切に把握して対応
森さんは時代が要求する課題に敏感に反応する感覚を持ち合わせておりました。それが応用数理学会の設立に結実しました。用意周到に進めた手腕は見事の一語に尽きます。その後応用数理学会が日本の科学技術の進展に如何に寄与し続けているかは皆さんが御承知の通りであります。
5. 科学的業績
科学的業績に就ては見事というほかに言葉が見当たりません。数値解析におけるテーマの持つ適格性、古典的応用数学の真髄の把握、計算機科学の巧みな応用、具体的有効性これぞ数値解析の歴史に残る業績と思われます。
6. 組織の指導者としての優れた資質
組織の指導者として優れた先見性とバランスのとれた運営を心がけ、時には情に流されない的確な 判断を行ったのは印象に残っております。それは彼が学問以外のどの分野に進んだとしても成功したであろう優れた資質の表現であったと思われます。筑波大、東大に在職中に優れたお弟子さん達を育てあげました。杉原さん、降旗さん、松尾さん、張さん、等々、森イズムを脈々と継承して大きな流れを形作っているのは壮観であります。
7. 家族に対する情愛
特に次女の方に就ては東日本大震災に際してのボランティア活動その後の仕事の有り様に付いて父親としての真情と愛情の細やかさを見せていたのは印象に残っております。
8. 麻雀の思い出
麻雀の付き合いは前に述べたセミナーに起因しております。参加者は当初、藤田先生、花村さん、森さんと私でした。後に名取亮さんが参加することになります。セミナーは当時本郷三丁目にあった雀荘で麻雀という形で引き続き行なわれました。そのポストセミナーが途中の中断を挟み、最近まで継続して行なわれました。森さんの麻雀は一言で云えば”綺麗な手にこだわる優雅な麻雀”でした。最後にお会いしたのは藤田先生、森さん、今は亡き名取さんと私が囲んだ一昨年の麻雀会でした。その時私が彼の素晴らしい一手に振り込みました。その時彼が見せた喜びを押し殺した端正な顔がとても印象に残っております。次回の麻雀会の相談を藤田先生とした折、先生が森さんが健康を害しているようだと言っておりましたので、メールを送信しました。返信に自分が健康に問題があるので世の中のために仕事が出来ないのが残念であるといっておりました。
慎んで森さんの冥福をお祈りいたします。